GEPEC 便り 6月号 – no.15 –

Dr Beach わが思い出の記 第8章 (和訳)

1980年代:WHO(世界保健機構)、FDI(国際歯科連盟)、ISO(国際標準化機構)との協力  

70年代後半にHPI研究所で起きた二つの出来事が、その後の私の人生の方向に影響を与える事になった。 WHOのプロジェクト: ひとつはDr George Beagrieとの出会いだった。彼と初めて出会ったのは、私が3日間コースをスコットランドで行っていた時だった。彼は同地の歯学部の教官をしていたが、後にカナダのトロント大学に移り、さらにバンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学歯学部の学部長に就任した。当時私はクリニックに新規導入したコンピューターに100%数字用語で入力を行う事で、ラテン語ベースの英語や日本語、ドイツ語の専門用語の混在という頭痛を排除することに専念していた。 しかしジョージの最大の関心事は、指-前腕のコントロールを主体とした学生の臨床スキルであった。HPIには設置してあったシミュレーターがジョージの注意を引いた。それは、1人のインストラクターが2列に並んだ学生10名の指のポジションと動きを監視できるように設計されていた。ジョージは、1クラス40名からなる彼の歯学部にシミュレーター40ステーションを導入する事に決めた。 ジョージは、WHO口腔保健部長であるDr David Barmesを知っていたので、彼に私を紹介した。Davidの第一の関心は、世界中から口腔の健康と疾患に関する信頼性の高いデータを収集し、コミュニティー・ベースの口腔疾患の予防とセルフケアを実施する事で口腔保健を改善する事だった。ジョージの関心は、最適な指のコントロールを通して、質の高い歯科治療を提供し、再治療率を下げる事だった。(注釈:WHOのDavid BarmesとDaryl Beachは頭文字が同じだったので、関係者の間ではDr BarmesはDB0、DBはDB1と呼ばれていました。) WHOは、HPI(Human Performance Institute)に大型クリニックが併設されていたので、最初私は歯科医師の関心事に主体を置いているのだろうと想定していた。しかしながら、農場育ちの私は、どちらかと言えば農夫の感じ方に近いものを持っていたので、歯科医師中心のグループが、私の関心をとらえた事は一度もなかった。この農場育ちという生い立ちは、後に1980年代にWHOのプロジェクトに関与する事になった時に、とても役に立った。 1970年代末には、WHOはHPIに各国から多数の代表者たちを送りこみ、私の活動目的がWHOの主旨に適合するものかどうか評価しようとした。私の見解が適合する事を確認した後、彼らは私をどの国に派遣するべきかを検討した。最終的にタイかブラジルのどちらかという二択になったのだが、私はまずブラジルに送られ、その後タイに行って、コミュニティ・ケア・プロジェクトの計画立案を手伝った。さらにスイスのジュネーブにあるWHO本部にもしばらく滞在した。WHOは、世界中に数か所の地域事務所を持っていた。 東南アジアの地域事務所長は日本人であり、私の活動を彼の地域事務所の管轄下に置きたいと考えたようだが、本部の考えは違っていた。WHO本部と地域事務所の間の私をめぐる対立が、当時WHO事務局長であった、デンマーク出身のDr Mahler(マーラー)の眼にとまった。 Dr Mahlerは、健康志向のインデックス、グローバルに適用可能な数字用語による診療記録、さらに所定の結果を達成するための手順の多様化(ばらつき)を減らす事に通じる、人体の条件や治療手順の原則などを気にいった。 手順のバラつきから生じる誤りや無駄は、治療手順の結果の質を下げ、医療コストの増加をもたらす事になるからだった。  

“GEPEC 便り 6月号 – no.15 –” の続きを読む

GEPEC便り 5月号 – no.14 –

DrBeach わが思い出の記 第7章 (和訳)

熱海にHPI研究所を開設-日本を拠点としたグローバル活動

私は1970年、日本の熱海にHuman Performance Institute (HPI)と称する研究所を開設した。熱海に移ったのは、東京の大気汚染のために娘 Lynの喘息が悪化した事が主な理由だった。熱海の空気はきれいだったし、熱海には新幹線が走っていたので研究所の訪問者にとって便利な立地だった。 Dr宮田や森田氏など、私の富裕なビジネス上の友人たちは、大勢の富裕な患者や大学とのつながりがある東京を離れて、私がなぜ人口5万人にも満たない小さな町に移ったのか不思議がった。Dr宮田は東京で1963年に開設したモデル・クリニックを新築ビルにも展開していくという大きなプランを私のために温めていた。森田氏は、熱海の住民や歯科医院の市場調査をした結果、私はすぐに破産するだろうと考えていた。
私はモリタ社からエンジニアリング・コンサルタントとして1年に150万ドル以上を受け取っていたが、私にはきれいな空気と医療のためのグローバル・スタンダードの活動の方が、ビッグ・マネー、ビッグ・ショウ、ビッグ・パワーよりも、大切だった。
熱海に移ってまもない頃、私のスタンスを試すもう一つの踏み絵が待っていた。Dr宮田は熱海の大型ビルを購入し、医科・歯科両分野のスタッフを抱えた頭頸部医療研究所を設立し、ビルの屋上に負傷した患者を高速道路からヘリで運ぶためのヘリ・ポートを設けるという計画を立てていた。長い時間をかけて検討した結果、私はこの研究所の所長というオファーを断った。ビルそのものは魅力的な植栽に囲まれていたのだが、ビルにいたるまでのドライブウェィ沿いに廃車置き場があったからだ。毎日出勤するのに廃車の山を通り過ぎるのが嫌で、受け入れる気になれなかったのだ。 Dr宮田は何とかしてこの廃車置き場の土地を買い取ろうとしたが、所有者は別の廃品置き場の中の掘っ立て小屋に住んでいて、どんな大金も受け取る気はなかった。私は時々、もしこの時医科・歯科医療研究所の所長という、日本の大富豪トップ10の一人からのオファーを受けていたら、今頃どうなっていただろうかと思うことがある。
このオファーを受け入れる代わりに、私は、熱海市所有の大きなビルの1フロアを借りて、研修施設と、24の診査・治療エリアを持つクリニックを開設した。 4つの診査/治療エリアと4つの相談エリアは予防専門家(注:衛生士)の専用とした。また4か所に、レントゲン撮影や他の手短な手順を行うために固定式の椅子を設置した。HPIは少人数のスタッフでスタートしたが、やがて60人以上の大所帯になった。大半のスタッフは、クリニックで診療に携わった。HPIは多くの国から短期滞在のスタッフも迎えいれた。

           

“GEPEC便り 5月号 – no.14 –” の続きを読む

GEPEC便り 4月号 -no 13-

Dr Beach わが思い出の記(和訳)

第6章:エンジニアリングの仕事
    -福男とDr 宮田との出逢い

森田福男氏は歯科用器械を製造する日本の会社の社長であったが、スエーデンに向かう途上でアラスカに立ち寄った。そこで私は、歯科医師が最適な指のコントロールと口腔への視線を確保できる位置に、患者と歯科医師、歯科助手の体とインスツルメントやライト、他の装置を統合した歯科用器械のラフなスケッチを何枚か彼に手渡した。彼がその図面を主任技術者に見せたところ、彼は即座に試作したいと答えた。私のねらいは、当時Dr宮田(*宮田慶三郎博士)という大富豪から、彼の大きな新築ビル内にモデル・クリニックを開設してほしいと依頼されていたので、その中に入れる診療台の開発だった。私は突如として、大手の歯科メーカーの開発プロジェクト、歯科大学の新校舎建設計画、さらにはDr宮田のビル新築に関与するという込み入った状況に陥ってしまった。 私がDr宮田に出会ったのは、研究室で癲癇発作を起こして吠えまわる多数の犬のせいだった。私は大学の研究棟の学部長とDr佐藤の部屋に隣接するオフィスで早朝を過ごしていた。学部長(Dr鈴木)から、なぜ私はオフィスに在室している時間が少ないのか尋ねられた時、私は上の階から聞こえてくる騒がしい犬にがまんがならないのだと答えた。彼は、研究プロジェクト長であるDr宮田に問い合わせるようにと言った。そこで私はDr宮田に犬について苦情を言うために上の階に行った。Dr宮田は、癲癇発作を抑える薬剤の効果を研究するために、外科チームと共に犬の様々な組織検体を採取している手をとめた。彼は私を夕食に誘い、その夜お抱え運転手つきのリムジンで私を迎えにきた。 彼が私に米国旅行に付き合ってくれと頼んだので、私は初めて大富豪の金の使い方を目にする機会を得た。第二次大戦前に、天皇は事業の独占権を幾つかの家族に授与していたという。宮田家は日本において銀と超硬鋼事業の独占権を得ていた。銀の在庫は米軍によって押収されたが、戦後何百万ドルもの対価が支払われた。彼は私と共に渡米して、私財の使い道を見つけたいと考えていたのだ。ジェット機登場前の長い旅中に、私たちは様々なアイデアを話し合ったが、私は当時日本には存在していなかったコーポのアパートやスーパーマーケットを提案した。

“GEPEC便り 4月号 -no 13-” の続きを読む

GEPEC便り 3月号 -no.12-

皆様、

今回は、DBのわが思い出の記「第5章 日本大学歯学部、臨床教授就任」をお送りします。 日大の創設者である佐藤先生の依頼を受けての就任だったとはいえ、若輩32才のアメリカ人が臨床教授として乗り込んできて、周囲の大反対をものともせず、次々と学内の変革を行ったのですから、さぞかし嵐のような日々だったろうと推察します。 真偽のほどは分かりませんが、当時をご存じの高江洲先生(元東京歯科大学教授)が昔「Drビーチは使用禁止にした薬剤類を日大の前の神田川に流したという伝説がある」とおっしゃっていたのを思い出しました。 当時のDBの人生に思いをはせて「失うものがない、失う事を恐れない人間は強い。」と痛感しました。

Dr Beach わが思い出の記(和訳)

第5章 日本大学歯学部、臨床教授に就任

私は1958年9月、歯学部の学生を教えるべく日本大学歯学部に赴任したつもりだったが、当時80代だった創設者のDr佐藤には別の計画もあった。私は32才にして、教授かつ日本大学歯学部病院の院長代理に任命されたのだ。Dr佐藤から、6カ月以内に同学部の評価結果を報告するように言われた。日本では歯科医師免状を得るための国家試験を受けるには、歯学部での6年間の教育が必要だった。各学年に200名の学生が在籍していたので、歯学部には合計200x6=1200名の学生がいた。さらに、博士号(PhD)を取得するため4年間研究に従事する大学院生が200名いた。院生たちは、歯学部で4年(以上)の間教授の奴隷として仕え、彼らがなしとげた成果の多くは、教授のお手柄という事になった。教授たちは、いい身分だったのだ。 Dr佐藤への私の評価報告には、建物、設備、器材、患者の経験、様々な臨床検査、治療計画、治療方法や治療結果が含まれていた。1958年~1960年日本はまだ医療に費やす技術的資源に乏しい国だった。 それだけではなく、日本の最初の歯科大学4校の学長たちが1900年(!)にシカゴ歯科大学で使われていたシステムを導入し、厚生省がそれを元にして患者治療の標準政策を策定したおかげで、私はフラストレーションに陥っていた。私が着任するまで、全ての歯科大学において、患者治療に関する学生の必須要綱は全く改訂されていなかった。米国陸軍は、日本が占領下にある期間に患者治療のパターンを変更するよう指令を出したが、大学に出向いて日々の診療を調べた訳ではないので、何も変わらなかった。 私は1年目の報告書に、校舎に関して「校舎はしっかりした造りだが、第二次大戦中に米軍の空爆にあい、窓が割れたなど修理が必要な個所がある。」と書いた。高い天井から漆喰が剥げ落ちてクリニックの患者や学生の上や床に落下してきたので、200人の学生を動員して、天井や壁、窓を掃除するように指示し、環境衛生に関する彼らの認識を高めようと思った。Dr佐藤はこの掃除デーの計画を承認した。学生たちと私は掃除を極めて楽しんでいたのだが、突如、教授会の委員長が退出命令を出した。クリニックの掃除をするなど、大学の学生たる者の沽券にかかわるという理由だった。幸い、退出命令が出た時に、掃除はほぼ完了していた。農場育ちだった私は、大学入試だけのために勉学に勤しんできた学生達に肉体労働を体験させるのは、貴重な教育の一環だと考えたのかもしれない。(中国の文化大革命時に毛沢東が学者たちを数年間農地に送り込んだのは賢明だったと思う。)

“GEPEC便り 3月号 -no.12-” の続きを読む

GEPEC便り2月号 -no.11-

前略。今春は例年より重症の花粉症に悩まされている人が多いと言われていますが、皆様はいかがでしょうか?  今回は、2月23日の講演会時に頂いたご質問に対して回答させて頂きます; 

Q) pdのdはderivationだと思うが、deductionとは意味がどう違うのか? PdはProprioceptive derivationの略で、Drビーチの造語であり、「固有感覚による演繹」を定訳としてきました。 日英の辞書を紐解くと、derive (v) は「導出する(みちびきだす)、派生する」、他方deduce (v)は「(論理学)演繹する、結論・真理などを推論・推測する」となっているので、「固有感覚にもとづく演繹」という日本語の表現に対応する英語としてはdeductionの方がふさわしいのではないかと疑問に思われたのだろうと思います。Drビーチは、昔はhome positionやperformance logicという表現を用いていましたが、WHOのプロジェクトへの協力が始まった1980年代には、DBが開発したシステムを歯学部教育に導入したメリーランド大やカナダのブリティッシュ・コロンビア大学の先生や他の大学関係の先生方から、performance logicという表現は科学的ではないという批判があがったため、(注:performanceという語は、まず演劇やダンス、歌などartの分野を連想させます。)科学的な根拠を示す表現を模索した結果、1980年代後半からproprioceptive derivation, proprioceptively derived (pd/dp) という表現を使い始めました。最初から、Drビーチの頭の中にはderivationにするかdeductionにするかという疑問は無かったと思います。当時私はHPI研究所のtechnical staffとして、通訳業務だけではなく開発にも携わっていたのですが、「固有感覚による演繹」という和訳は私自身が言いだしたものなのか、どのような経緯で定訳になったのか悲しいかな、記憶にありません。但し、英語、日本語の両方とも、1989年に設立された世界pdヘルスケア・ソサエティの会長を務められた生理学の大家、河村洋二郎先生のお墨付きを得た事は確かです。

日英辞書の一例: Derive from :由来する 原義(derive)は、水源から流れを引く→流れ出る。物や事に由来する、物や事から由来して出てくる(派生する)という意味で使う。由来して出てきたものに重きをおく含みがある。(類語:originate from) Deduce from: 推定する、推測・推論する。 Drビーチの姪 Gayle Beachは非凡な言語学者であり、DBの生前から英語に関する疑問は彼女に色々と尋ねてきました。 そこで今回の質問も、Gayleに送ったところ、以下のコメントが寄せられました。尚、注釈、下線、括弧は私が加えました。

Gayleのコメント:

derivationと deductionの意味合いは、同じではない。(注:日英の辞書では両語とも「演繹」と定義されている事があります。) 何かをdeduceするという場合、それはすでに存在していて、論理によってそれが発見される。例えば、探偵は誰が殺人を犯したか推論する、あるいはトランプのプレーヤーは、どのカードが場に出されたかによって、ゲームの相手がどのカードを持っているかを推定する。 他方、derivation とは、それまでには存在していなかった何かが、発見されるというよりは、ある種の論理を通して創りだされるものである。 derivationという語は「単語」について用いられることが多く、昔の言葉から進化してきた言葉の歴史や既存の言葉から新しい言葉を造る場合に用いられる。(注:派生語に相当します。) Darylはもちろん既存の言葉から数字用語を考案したのではなく、固有感覚受容に基づいて開発した。これは、彼のアイデアが非常にオリジナルだった理由の一つである。彼はすでに存在している何かを発見したのではなく、論理に基づいて新しいものを開発したのであるから、derivationという表現が妥当だと思う。 deductionという語は、探偵小説や日常会話では気軽に用いられているが、論理学においては特定の意味を持っている。厳密な意味においては、それは「一般から特殊へ」という発想法(reasoning from the general to the specific) (注:演繹法)を意味している。もしある分類の各構成員が特定の特徴を持っているとするなら、その分類の全ての構成員はそれらの特徴を有することになる。例えば、「全ての鳥には羽根がある」という事を知っていて、もし1羽の鳥がいたとするなら、私はその鳥にも羽根があると結論づける。これと対照をなすのがinduction(帰納法)で、これは「特殊から一般へ」という発想法 (reasoning from the specific to the general)である。例えば自分が今までに見たことがある鳥には全て羽根があったので、それを根拠として、ほとんど全ての鳥は羽根を有していると結論づける。Deductive reasoning(演繹的発想)は、数学ではとても有用だが、他方自然科学においては、ほとんどの場合、帰納的発想を用いる必要がある。(Gayleの原文を、末尾に添付します。)                 GEPEC事務局 三明

                      

Q: What is the difference between derivation and deduction? Gayle’s comment: 190305 “Derivation” and “deduction” do not have quite the same meaning. If something is deduced, it already exists, and its discovery is made through logic. For example, a detective may deduce who the murderer is, or a card player may deduce based on what cards have been played what cards the opponent may have in his hand. Derivation, on the other hand, means that something did not exist before, and is created through logic of some kind, rather than discovered. The word “derivation” is often applied to words, either in talking about the history of words that evolved from earlier words, or in creating new words from existing words. Of course, Daryl was not developing terms from existing words but from proprioception. This is one reason that his ideas were so original. But still the term “derivation” makes sense because he was logically developing something new, rather than finding out something that already existed. By the way, although the word “deduction” can be used rather loosely in a detective story or everyday conversation, it has a specific meaning in logic. In the strict meaning, it means reasoning from the general to the specific — if every member of a classification has certain characteristics, then any individual member of that classification will have those characteristics. For example, if I know that all birds have feathers, then if this is a bird, I conclude it will have feathers. This is contrasted with induction, which means reasoning from the specific to the general. For example, every bird I have seen has feathers, so from that evidence I conclude that most or all birds probably have feathers. Deductive reasoning is especially useful in mathematics, while mostly inductive reasoning must be used in natural sciences.

GEPEC 便り 1月号 -no.10-

前略。インフルエンザが猛威をふるっていますが、皆様お元気でお過ごしでしょうか?今月はDaryl Beach わが思い出の記、第4章(和訳)をお送りいたします。  

DBわが思い出の記 : 第4章 Dr峯田拓哉との出会い 

1955年、私は興味を示してくれるかもしれない日本人の歯科医師に紹介しようと、高速ハンドピースを携えて東京に出向いた。

もう一つの偶然:国鉄東京駅に降り立って、周囲を見回したところ、目前の建物の高層階に歯科医院の看板を見つけた。受付員が、そこでグループ診療をしている先生方の中から、Dr峯田拓哉を紹介してくれた。彼は英語が堪能であるだけではなく、日本の歯科医療を改善したいという強い思いを抱いていた。私は日本人の見解について多くの事を彼から学んだ。

私の親友、Dr峯田拓哉

                            https://www.drdarylbeach.net/wp-content/uploads/2017/10/Dr-Takuya-Mineta.bmp後の彼の自死は、都市開発のスポンサーが地上げ屋と結託するという日本の暗黒面と関連していた。私は1955年から、当時軍部がまだ採用していなかった高速ハンドピースや高容量バキュームなどの新しい機器を自分で購入していた。そこで海軍は空軍や陸軍の基地に私を派遣し、デモンストレーションを行わせた。

さらに、私は日本の歯科大学や東南アジアにも出向いて、デモをすることになった。東南アジアでは、私は戸外でデモを行っていたのだが、その時初めて、患者を平らなテーブルの上に横たえて治療する方が指のコントロールが上手く出来るという重要な事に気づいた。 “GEPEC 便り 1月号 -no.10-” の続きを読む

GEPEC 便り 12月号 - no.9 –

前略。大晦日を明日に控えて、皆さま慌ただしくお過ごしの事と思います。今年8月に貴会との合同事務所に転居して以来、GEPEC事務局/ランセンターも新しい一歩を踏み出しました。
これまでもGEPECとpd普及の会は協力関係にあったのですが、同じ空間を分かちあうことによって、今までは全く知らなかった事に気づく事ができるようになり、両組織の結束がさらに強まったように感じています。あらためて活動の「見える化」の重要性を痛感した半年でした。今回はDBの思い出の記の第3章をお送りいたします。
皆様、良いお年をお迎えください。来年もどうぞよろしくお願いいたします。                          GEPEC 事務局 三明                                                                      2013年DrSittichiと。

DB わが思い出の記 「第3章 横須賀の海軍病院へ」(訳)
1951年に24才で大学を卒業した時、自分でしたくない事に従事する私の人生は終わり、自分でしたい事やプロジェクトの人生が始まり、翌年には朝鮮戦争中の米国海軍に召喚された。当時、私は口腔外科医と共に個人開業していたが、サンディエゴに送られ、そこでも“成り行き”で、日本にある大きな海軍病院に配属される事になった。
私は患者の口の中に指を入れて処置をするというのは、時間の過ごし方として悪くないと気づいた。そして患者を治療するのに最も楽で簡単な方法をあみだす事に専念した結果、海軍配属の歯科医師に寄せられる期待をはるかに上回る結果を達成していたのだが、そのために私の活動に最初の調査が入ることになった。私の治療記録は偽造であるか、劣悪な質なのだろうという報告があがっていた。
私の患者の多くは治療を受けた後、カルテと照合して秘密裡の検査を受けた。幸か不幸か、この患者の調査がプラスに働いて、私は日本に赴任することになったのだった。私の同僚たちは軍艦に配属されたが、私は船上で過ごすのは好きではない事に気づいた。上官に船上の任務を回避するにはどうすればよいかと相談したところ、当然の事だが、それなら、どうして海軍に入隊したのかと問われた。彼は、管理部に出向いて、海外の陸上の任務を志願してもよいが、そうすれば、却って即座に軍艦に配属される事が多いと言ったが、私の患者達とカルテが秘密裡に調査された結果、私に推賞が与えられたから、それが役に立つかもしれないと教えてくれた。
管理部で、私は海外の歯科診療部がある海軍基地を記した古びた世界地図を見せられた。私は当時ドイツ語ができたので、赴任地として最初ドイツを希望したが、担当官はその基地は気候が悪いと却下した。次に選んだのはスペイン、その次はハワイを選んだが、彼は次々と却下した。それで、一体どこへ行けばよいのかと聞いたら、日本の横須賀海軍病院が世界中で最高の赴任地だと答えた。それで私は承諾し、まもなく日本に上陸した。日本の最初の印象は、“ここは、混雑した国だな”というものだった。
それ以来、私の人生には、自分の関心に基づいて、急速に変貌を遂げる時代に適合した、あるいはその先をゆく、プロジェクトが次々に舞い込んできた。 “GEPEC 便り 12月号 - no.9 –” の続きを読む

GEPEC 便り 11月号 - no.8 –

前略。今週は暖冬で過ごしやすい毎日ですが、いかがお過ごしでしょうか?今月は前月の続編で、DBが自ら書き遺した「わが想い出の記」第2章の和訳をお送りします。読み返してみて、歯科とは離れたところでのDBの“人となり”が偲ばれました。風邪が流行る季節になりましたので、皆様お体ご自愛ください。    Gepec事務局 三明

Daryl Beach わが想い出の記 第2章

2. ポートランドへ

私が高校生の時、真珠湾攻撃が起こった。その後、高校高学年の生徒は、米国政府の一斉試験を受ける事になったが、試験に関する事前情報は一切与えられなかった。試験用紙には、陸軍か海軍のどちらかを選択する箇所があった。私は、海軍のネイビー・ブルーの方が陸軍のカーキ色より女性受けするだろうと思って、海軍の方に印を入れた。私ともう一人の生徒が試験に合格し、大都市オマハに出向くように指示された。もう一人の級友は陸軍を選んだので、オマハの別の場所に出かける事になった。面接を受ける前の待合室で、同席した生徒は私に何を専攻するつもりかと聞いた。

私の頭には農業だけしか浮かばなかったので、そう答えると、彼は海軍志願者に農業の選択肢はなく、工学、基礎科学、医学、歯学の4択だと教えてくれた。彼が医学部と歯学部は教育年数が長いと言ったので、私の選択肢は狭まった。私は愛国者ではないので、戦場に派遣されるまでの期間をできるだけ長引かせたいと思ったのだ。医学を選ぶことも考えたが、彼は自分の父親は歯科医師で診療時間は一定しているが、医師は夜間でも往診に出かけなくてはならないと言った。

私はわが家のファミリー・ドクターだったDr. Wertmanの事を思い出した。彼が雪の降る中、ポンコツ車を7マイル(約11km)走らせて往診してくれた冬の日の事を思い出し、歯学部に進もうと決めた。私がそれまでの人生で歯医者にかかった事があるのは、一度だけ、乳歯を抜いてもらった時だったが、幸か不幸か、面接官は余り質問をしなかった。私は歯科医師になる計画を立てていたのではなかった。実際、人生の何事についても、長期計画など立てたことはない。人生は一連の出来事が起き、その時その時で決定を下したところから、色々なプロジェクトが始まった。

私は、肩書のはしごや、財産のはしご、承認のはしご、所有のはしごなどを登ることには一切興味がなかった。私は、最初から頂点に着地するか、底辺に居座るかで、社会のはしごを登る途中の時代はなかった。

1943:二つの大きな波

家族は、オレゴン州に転居する事になった。ネブラスカ州は干ばつだったが、オレゴン州はそれを補うかのように降雨量が多い地域だった。私一人だけネブラスカ州に残って、小学校8年生までを教える事ができるネブラスカ州の教員免状を取るための正規の研修コースを完了した。

高校の卒業式の夜、私はオレゴン州に移ったが、そこでは18才になると兵役に就くため徴兵される事になっていた。私は陸軍や海兵隊に配属されるのを避けるために、徴兵される数日前に海軍に入隊し、アイダホ州Farragutのブート・キャンプ(新兵訓練施設)に送られた。

私はいいかげんな新兵だったし、だらしない恰好をしていたので、大隊長のところに送られ、叱責を受けた。ネブラスカ州で受けた一斉試験の結果がオレゴン州に届いてまもなく(当時報告書の転送には時間がかかった)、私は連隊本部に呼び出され、大学の新学期が始まるまでは家に帰ってよいと言われた。

そうと知ったブート・キャンプ(新兵訓練施設)の指揮官は、信じることができなかった。戦争の真っただ中に、市民として自宅に戻ってよい新兵など、いるはずがなかった!!でも、私は大学で落第してしまった場合、新兵として訓練を一からやり直すのが嫌だったから、ブートキャンプを終了することにした。
https://www.drdarylbeach.net/wp-content/uploads/2017/10/Daryl-in-Navy-uniform.jpg
セーラー姿のDaryl
“GEPEC 便り 11月号 - no.8 –” の続きを読む

GEPEC 便り 10月号 -no.7-

前略。秋も深まってまいりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか?ちょうど2年前の今日DBは世を去りました。私は「しばらく私は単身赴任で地球に残るけれど、そのうち合流するから待っていて。」と言って彼を見送ったのですが、この2年間を振り返るとあっという間だったようでいて、随分長かったようにも思え、感無量です。pdに関する情報発信からは脱線しますが、DBの命日にちなんで、今月は彼の“人となり”を取り上げたいと思います。

1)わが思い出の記:

以前にも何度かご案内させて頂いたhttp://www.drdarylbeach.net は、英語のウェブサイトですが、少しずつ日本語のページを追加しており、毎月のGEPEC便りを、メニューのideas (Japanese)に投稿しています。今後はDB自らが書いた「My memoire(わが思い出の記)」の和訳も連載の形で掲載していく予定です。

今回は「第1章:子供時代」の和訳をお届けします。(原文は同ウェブサイトのMy Memoireをご覧ください。)

DB わが思い出の記 第1章

10月31日DBと親交が深かった方々と共にHome Partyを開きました。 “GEPEC 便り 10月号 -no.7-” の続きを読む

GEPEC便り 9月号 -no 6-

9月は超大型台風や地震が全国で猛威を振るった1か月でしたが、皆様ご無事でしたでしょうか?今回は、最近見つけた「Fatigue Studyという書籍らの抜粋」と「GEPECの基準条件と4段階の合否評価」をご紹介いたします。    GEPEC 事務局 三明

*「無駄と疲労」(Fatigue study; Chapter 1, page 3 よりの抜粋)

最近、ランセンターの片隅に放置されていたファイルの中に、手書きのメモやマーカーの印がついている、色褪せた数枚の紙を見つけました。それはFatigue Studyと題する本(絶版)の数ページでした。なぜDBが関心を払ったのか知りたいと読み進めてみて、著者は労働者の作業環境や労働中の疲労について言及しているものの、労働者=歯科医師、労働環境=診療環境と置き換えると、そのまま歯科医療にあてはまることに気づきました。「pdとは何か」を伝えるのは難しいと思われますが、平たく表現すると、ムリ、ムラ、ムダを省いて、術者にとって最もラクな(疲労しない)状態で、正確な治療結果を一貫して達成するための方法(アプローチ)と言えるのではないでしょうか?以下の抜粋では、ムダ(waste)と疲労(fatigue)がキーワードとして使われています。(以下、抜粋)

動作の研究(motion study)において、「世界中に、不必要な、方向を誤った、非効果的な動作から生じる無駄に匹敵するほどの大きな無駄はない」と述べられているが、本章では、無駄な動作について考察する。無駄な動作とは、無駄な労力と無駄な時間を意味しており、このような無駄が生み出す結果の一つに、不必要な疲労がある。不必要な労力を費やした時間が、結果として無駄になってしまうのである。 “GEPEC便り 9月号 -no 6-” の続きを読む