Dr Beach わが思い出の記 第8章 (和訳)
1980年代:WHO(世界保健機構)、FDI(国際歯科連盟)、ISO(国際標準化機構)との協力
70年代後半にHPI研究所で起きた二つの出来事が、その後の私の人生の方向に影響を与える事になった。 WHOのプロジェクト: ひとつはDr George Beagrieとの出会いだった。彼と初めて出会ったのは、私が3日間コースをスコットランドで行っていた時だった。彼は同地の歯学部の教官をしていたが、後にカナダのトロント大学に移り、さらにバンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学歯学部の学部長に就任した。当時私はクリニックに新規導入したコンピューターに100%数字用語で入力を行う事で、ラテン語ベースの英語や日本語、ドイツ語の専門用語の混在という頭痛を排除することに専念していた。 しかしジョージの最大の関心事は、指-前腕のコントロールを主体とした学生の臨床スキルであった。HPIには設置してあったシミュレーターがジョージの注意を引いた。それは、1人のインストラクターが2列に並んだ学生10名の指のポジションと動きを監視できるように設計されていた。ジョージは、1クラス40名からなる彼の歯学部にシミュレーター40ステーションを導入する事に決めた。 ジョージは、WHO口腔保健部長であるDr David Barmesを知っていたので、彼に私を紹介した。Davidの第一の関心は、世界中から口腔の健康と疾患に関する信頼性の高いデータを収集し、コミュニティー・ベースの口腔疾患の予防とセルフケアを実施する事で口腔保健を改善する事だった。ジョージの関心は、最適な指のコントロールを通して、質の高い歯科治療を提供し、再治療率を下げる事だった。(注釈:WHOのDavid BarmesとDaryl Beachは頭文字が同じだったので、関係者の間ではDr BarmesはDB0、DBはDB1と呼ばれていました。) WHOは、HPI(Human Performance Institute)に大型クリニックが併設されていたので、最初私は歯科医師の関心事に主体を置いているのだろうと想定していた。しかしながら、農場育ちの私は、どちらかと言えば農夫の感じ方に近いものを持っていたので、歯科医師中心のグループが、私の関心をとらえた事は一度もなかった。この農場育ちという生い立ちは、後に1980年代にWHOのプロジェクトに関与する事になった時に、とても役に立った。 1970年代末には、WHOはHPIに各国から多数の代表者たちを送りこみ、私の活動目的がWHOの主旨に適合するものかどうか評価しようとした。私の見解が適合する事を確認した後、彼らは私をどの国に派遣するべきかを検討した。最終的にタイかブラジルのどちらかという二択になったのだが、私はまずブラジルに送られ、その後タイに行って、コミュニティ・ケア・プロジェクトの計画立案を手伝った。さらにスイスのジュネーブにあるWHO本部にもしばらく滞在した。WHOは、世界中に数か所の地域事務所を持っていた。 東南アジアの地域事務所長は日本人であり、私の活動を彼の地域事務所の管轄下に置きたいと考えたようだが、本部の考えは違っていた。WHO本部と地域事務所の間の私をめぐる対立が、当時WHO事務局長であった、デンマーク出身のDr Mahler(マーラー)の眼にとまった。 Dr Mahlerは、健康志向のインデックス、グローバルに適用可能な数字用語による診療記録、さらに所定の結果を達成するための手順の多様化(ばらつき)を減らす事に通じる、人体の条件や治療手順の原則などを気にいった。 手順のバラつきから生じる誤りや無駄は、治療手順の結果の質を下げ、医療コストの増加をもたらす事になるからだった。

(WHO口腔保健会議、大津にて、1982) (1列目:左端から石田先生、一人とんで、次が三明、WHO口腔保健部Ms Infirri, 河村洋一郎先生、他)(2列目:左端から2人目WHO口腔保健部長 Dr Barmes, カナダブリティッシュ・コロンビア大学歯学部長Dr Beagrie, 米国メリーランド大学歯学部長 DrReese、他) (3列目:左から3人目、ただ一人よれよれの、カーデガン姿でふざけているのがDB。お隣は河村洋二郎先生の奥様)備考:お名前を失念した方々も、皆さん各国のお歴々です。
80年代前半、私はタイでのWHOコミュニティ・ケア・プロジェクトに従事していた。これは国の医学部・歯学部に基づく医療に代わる新しい方法を試みるプロジェクトであり、地元のリーダーはDrターワンだった。彼女はタイ、チェンマイ州で2校目の歯学部を創設し、初代学部長を務めた。彼女は、歯学部の増設を続ける当時の国の政策に怒っていた。 彼女は国が認定する歯学部は、健康の問題をかかえる住民や地域社会のためにはならないと考えていた。日本大学歯学部で臨床教授を務めた経験から、私も同じ結論に達していた。従って私たち二人は、優先順位として教官の利益が第一で、患者は最下位という、高額な費用がかかる医学部・歯学部よりも、良い選択肢があるはずだという点で合意した。 同プロジェクトが開始した1980年当初は、パソコンが導入され始めた頃だった。私は、パソコンは国が認定した歯学部に取って代わりうると気づき、プロジェクトでは、分散した村落群の保健センターにコンピューターを設置して、それらを繋ごうとしたのだが、コンピュータ・ネットワークはまだ実用化されていなかった。当時医療分野において、 医療業界、教官、学部の管理者や医師会、歯科医師会などの利益優先で、多数の医学部や歯学部が増設されてゆく前に、インターネットやウェブサイトが存在していれば、私たちの新たな試みが一体どういう結果をもたらす事になったか、想像もつかない。WHOは適切な国の厚生省の、適切な主要人物を選んで、私を紹介した。 私は人体の使い方に焦点をおいたパーフォーマンス・ロジックで知られていたが、WHOは人体の健康や人体の最適な維持に焦点をおいた活動をしていた。少なくとも、私たちはいずれも人体に焦点を置いていたので、WHOは、グローバルな視点で言葉の意味を深く考慮している関係者たちに私を紹介してくれた。 私はよくパーフォーマンス・ロジックの真髄は何かと尋ねられたが、それを最もよく理解できるのは、乳児期から盲聾という三重苦を負いながら、聡明で、指先で相手の口唇の動きに触れて、話を聴く事ができたヘレンケラーだろうと答えた。私は大きな講堂で講演をする時に、聴衆にも目隠しをしてもらった状態で、目隠しをしたまま話をするようになった。 歩く、立つ、座る、眠る、また座位か立位で指と足を使って作業をする際に、体が接触しても安全な場所を“体で感じる”ことによって、全ての物の大きさや形、位置を、“固有感覚に基づいて演繹する”事ができる。医療施設の空間、作業ステーションや指を含む人体各部の動線を判断するには、光と色の影響は排除する。色は、視覚を排除した条件で演繹された表面を覆うだけの存在である。所定の行為の目的を示すために必要な皮膚の覆い(skin cover)と色は、このルールの例外である。 やがて、狭い範囲を課題とするプロジェクトにおいてコンピューター・プログラムが開発されるようになってきたが、私のWHOでの活動や世界中で行うコースによって、グローバルな視点に立ったコンピューター・プログラムの作成にも関心が高まっていく事になった。 いずれにせよ、このグローバル・ローカルな医療ニーズという課題には、グローバルな知識の枠組み(Global Knowledge Framework)が必要であり、生存・安全・医療分野の経済に関する専門家の見解を載せた、様々なウェブサイトに組み込まれる必要がある。 私は1984年から1997年までWHO口腔保健専門家パネルの委員に任命されていたのだが、私はこのアイデンティティをどうしたものかと、心の中でよく思いあぐねた。