GEPEC便り 4月号 -no 13-

Dr Beach わが思い出の記(和訳)

第6章:エンジニアリングの仕事
    -福男とDr 宮田との出逢い

森田福男氏は歯科用器械を製造する日本の会社の社長であったが、スエーデンに向かう途上でアラスカに立ち寄った。そこで私は、歯科医師が最適な指のコントロールと口腔への視線を確保できる位置に、患者と歯科医師、歯科助手の体とインスツルメントやライト、他の装置を統合した歯科用器械のラフなスケッチを何枚か彼に手渡した。彼がその図面を主任技術者に見せたところ、彼は即座に試作したいと答えた。私のねらいは、当時Dr宮田(*宮田慶三郎博士)という大富豪から、彼の大きな新築ビル内にモデル・クリニックを開設してほしいと依頼されていたので、その中に入れる診療台の開発だった。私は突如として、大手の歯科メーカーの開発プロジェクト、歯科大学の新校舎建設計画、さらにはDr宮田のビル新築に関与するという込み入った状況に陥ってしまった。 私がDr宮田に出会ったのは、研究室で癲癇発作を起こして吠えまわる多数の犬のせいだった。私は大学の研究棟の学部長とDr佐藤の部屋に隣接するオフィスで早朝を過ごしていた。学部長(Dr鈴木)から、なぜ私はオフィスに在室している時間が少ないのか尋ねられた時、私は上の階から聞こえてくる騒がしい犬にがまんがならないのだと答えた。彼は、研究プロジェクト長であるDr宮田に問い合わせるようにと言った。そこで私はDr宮田に犬について苦情を言うために上の階に行った。Dr宮田は、癲癇発作を抑える薬剤の効果を研究するために、外科チームと共に犬の様々な組織検体を採取している手をとめた。彼は私を夕食に誘い、その夜お抱え運転手つきのリムジンで私を迎えにきた。 彼が私に米国旅行に付き合ってくれと頼んだので、私は初めて大富豪の金の使い方を目にする機会を得た。第二次大戦前に、天皇は事業の独占権を幾つかの家族に授与していたという。宮田家は日本において銀と超硬鋼事業の独占権を得ていた。銀の在庫は米軍によって押収されたが、戦後何百万ドルもの対価が支払われた。彼は私と共に渡米して、私財の使い道を見つけたいと考えていたのだ。ジェット機登場前の長い旅中に、私たちは様々なアイデアを話し合ったが、私は当時日本には存在していなかったコーポのアパートやスーパーマーケットを提案した。

彼は、旅中に難なく大規模なアパートやスーパーマーケットのオーナーたちとのミーティングを手配した。シアトル空港で私たちを出迎えてくれたのは、ペニシリンの治療効果発見によりノーベル賞を受賞したDr Floreyだった。サンフランシスコ空港では陸軍大将が出迎えてくれたが、Dr宮田はカリフォルニアを見たいので、サンフランシスコからロサンゼルスまでタクシーで移動したいと言いだした!その問い合わせに仰天したタクシー会社からの費用見積もりを私が告げてもDr宮田は動じなかった。そこで、私は彼に、サンフェルナンド・バレー(注:カリフォルニア州ロサンゼルス郡に位置する峡谷)を車で走り降りるのは退屈だろうと言った。Dr Floreyは、Dr宮田はジャクソン癲癇の研究で、国際生理学会の賞を受賞したのだと言った。 日本に戻ると、Dr宮田は即座に日本初のコーポ3軒と彼が所有する大型ビルの何軒かに日本初のスーパーマーケットを開設した。これはビジネスとして大成功したので、彼はアイデア提供者の私に大きなビルにモデル・クリニックを開設するように、広いスペースを寄付してくれた。その後40年以上経ち、2008年に当該クリニックが入ったビルは建て替えられた。 その間モリタ社の技術者チームは毎週末、京都から私のモデル・クリニック用の歯科用器械の図面を持参して東京にやってきた。私は図面を修正し続け、技術者たちは困惑した。なぜならそれに匹敵するような歯科用器械は存在しなかったし、器械のパーツを狭い空間に押し込めなくてはならなかったからだ。3か月後にモリタ社の社長が技術者たちと共にやってきて、毎週末の検討を続けるわけにはいかないので、フルタイムで製作所に滞在し、エンジニアリング・プロジェクトを陣頭指揮して欲しいと依頼した。 他方、大学の新築ビルには大学院の学生たちや海外の患者たちに対応するために、私のための大きなクリニックが用意されていたので、ジレンマに陥った。 結局、私は製作所の器械エンジニア、電気エンジニアたち全員をこのプロジェクトに配属させるという条件のもと、1年間フルタイムでエンジニアたちと仕事をする事に決めた。これは、私のクリニック用の特注器械が工場全体の製造計画になった事を意味していた。会社にとってはリスクであり、後に失敗したら、同社は何百人という従業員を抱えて破産するところだったと聞かされた。 この決定は2つの理由から、私にとっては良いものとなった;1)工場におけるエンジニアリングやマネジメントについて、私は多くを学んだ。そして私は、工学部は医学部や歯学部よりはるかによい教育を提供していると結論した! 2)それから間もなくして、大学構内や教室での学生の暴動が過激化し、ベトナム戦争勃発により反米感情が強くなっていった。 モリタ製作所での歯科用器械の発明: モリタ社は私の1年間の滞在に対してなにがしかの報酬を支払わなくてはならなかった。特許云々という話が出た時、私はどのように交渉してよいのか全く分からなかったので、Dr宮田に交渉役を務めてくれるように依頼したところ、彼はいきなり会社買収の交渉をしようとした。これはモリタ社が却下し、Dr宮田の仲介も拒否された。 Dr宮田はこのプロジェクトが会社にとっては高いリスクを負うものだという事を知り、私のアドバイザーになってくれた。最終的に、私はエンジニアリング・コンサルタントとして卸価格の5%を受け取るという事になった。私はアラスカの診療で十分の資金を蓄えていたので、会社のリスクを若い新社長が背負っているという事を知って、1年間は無報酬でよいと申し出た。 私たちは週6日ほぼ真夜中まで仕事をした。まもなく最初の試作品ができあがり、図面を手にした技術者たちが円陣を組んで私の周りを取り囲み、背後には有能な機械工が控えていた。工場内で多くの患者を見つけることができたので、私は開発中の試作品で患者を治療した。何百頁にも及ぶ図面の各頁にプロジェクト・エンジニア、主任エンジニアの承認印が押捺された後、私も承認のサインをしなくてはならなかった。 多数の特許が生まれ、やがてプロジェクトの作業場にいたる狭い通路の入り口には守衛が立つ事になった。プロジェクト・チームは入室時に身分証明書を提示しなくてはならなかった。当時の日本ですら、産業スパイを懸念したわけだ。私は簡単に見分けがつくので、身分証明書は必要とされなかった。歯学部で学生が石膏模型を作っている間に、私はタレット旋盤やグラインダーのある作業場で過ごしたので、幾つかのパーツについてはエンジニアリング図面に割かれる多大な時間を節約できた。 私は、術者の指のベスト・コントロールのための0ポイントに患者が自ら口をもってゆけるような、固定された、つまり背板が患者の体を傾けてゆくチェアではなく、平らな診療台を設計した。インスツルメント類、レギュレーター類やライトも指のベスト・コントロールと作業点への最適な視線を確保するために位置を固定する事ができた。これらの機能物の位置決めエラーによって、術者の位置の調節が必要となり、それが治療方法のエラーや歯科医師と診療助手の体に不当な緊張を強いることにつながる。 多くの歯科医師は、診療台のパーツの位置決めのエラーによる身体障害のために診療をあきらめる事になる。医科のクリニックでは、検査や治療のためには患者を診察台に横たわらせ、話をする時には座らせる。つまり、私が設計した歯科医院での患者たちの経験は、ほとんどの医科クリニックと類似していた。 しかしモリタ社は、工場で製造したものを販売して利益をあげる企業であり、役員たちは、私のコンセプトを背板が倒れるチェアに適合させるべきだと決めた。日本の全ての歯科大学において、教官も学生も座位、あるいは少し傾いた患者の前に立って治療することが標準だったからだ。 水平に仰臥する患者は存在していなかった。私が自分で望むもの対会社が望むものという葛藤に直面した頃には、水平位の患者の口腔に合わせて器械のパーツを固定する事を目指した開発は随分進んでいた。モリタ社は私のモデル・クリニックには私が望む器械を供給すると約束したので、私も妥協して、本来歯科医院には存在するべきではない多くのパーツの開発に協力した。インスツルメント類を診療台に統合した最初のチェア・タイプのユニット5台は、東京の私のクリニックに設置された。製作所で開発に取り組み始めて約1年後のことだった。 Dr宮田は工学、生理学、歯学、政治学の学位を持っていて、報酬や交渉の仕方について良いアドバイスをしてくれた。私はエンジニアリング・コンサルタントとしての収入を受け入れるつもりにしていたが、税務署はこれを発明者に対するロイヤリティの支払いに変えた。なぜならモリタ社が多くの国際特許の発明者として私を登録し、私が彼らに特許権の使用を許諾するという形を取っていたからだった。 後になって、なぜ政府がこちらの方を好んだのかが分かった。ロイヤリティの収入は不労所得なので税率が非常に高いが、エンジニアリング・コンサルタント料は労働所得となり、税率はずっと低かったのだ。高額の税金を支払って、それが兵器に費やされるよりはましだと思い、私は医療のスタンダードの促進のために私財を投じることになった。 1970年代、80年代、90年代に私の所得が年間150万ドルという高額に達した時、これは重要な事になった。私は今となれば、高額所得者が疑わしい国の保護や相続を介して親族のために私財を費やすよりも、社会的に有意義なプロジェクトに用いるために高額の税金を課することに賛同する。私は富に恵まれていた時代も、決して家や車、株など自分が使うための資産を所有しなかったし、投資もしなかった。このような考え方は家で多くの時間を過ごす妻との生活には適合しなかったし、富裕な家族は資産を見せびらかすことで尊敬を得る事ができると考えていた妻とは離婚する事になった。

1970年代、私は味気ない一人住まいだったが、幸運にも、13才にして女は男に頼ることなく自活するべきだと決意していた女性とめぐり逢った。彼女は日本語-英語の同時通訳者で、私が特別なミーティングを開催した時に出会った。私たちは今でも結婚生活を続けている。彼女と初めて出会ったのは、歯科大学5校の学部長とのミーティングだった。 ミーティングのテーマは、学生の治療結果の正確さに対する歯学教育で用いる用語の影響だった。歯科大学の教官たちは、患者と歯科医師の位置関係の抜本的な変更については認めつつあったが、学生の多くは正確な治療結果を達成できないままだった。 私たちは現在小さなマンションに住み、皮膚を覆うもの以外の消費はつつましく、車も所有していない。私が治療テクノロジーから得た何百万ドルもの私財は、電子的な治療記録のスタンダードの設立や院内LANの開発に費やした。 1960年代にもどろう。1963年米国のベトナムに介入にしてベトナム戦争を始めた事によって、大学では学生の反対運動が増加し始めたが、幸運にも1963年に私は製作所で1年間過ごした。反米運動の高まる当時、もし私が大学に留まっていたら米国に帰国せざるを得ない状況になっていたかもしれない。 モリタ社は巨額の投資について、市場調査を外注した。 その結論は、大学の学生たち、歯科医師たち全員が患者の前に立って治療をしている日本において、製作所が開発した、歯科医師が水平位の患者の後ろで座位をとるような器械の市場性は全くないというものだった。しかしこのデータは市場の100%を網羅していたわけではなかった。なぜなら、歯科大学で学んだ習慣は全て排除するように父親から言われ、台所の食卓の上で患者を治療している女性の歯科医師が見つかったからだ。60代だった彼女は、位置の逆転を採用した最初の一人であり、後にはその変人ぶりが大いに尊敬された。

モリタ社は絶望的になり、私に米国に戻るように依頼した。米国の歯科医師の方が私の考え方をより良く理解してくれるだろうと考えたからだ。しかし米国のメーカーは、立位の歯科医師と座位の患者から、座位の術者が従来よりも、もっと背板を倒した患者を治療するという位置関係を強調するように変化していた。しかし、患者の位置決めのX,Y,Zの0ポイントは、患者の骨盤の下のままだった。私は、患者の口腔における指のベスト・コントロールを確保するため、治療エリアの全ての機能物の寸法と位置の基準となる、患者と歯科医師の位置決めの0ポイントを上顎中切歯間に設定した。 産業界-大学-歯科医師のメリーゴーラウンドから形作られる習慣のために、誰も私に賛成しなかった。しかし私の患者治療のデモンストレーションは歯科ミーティングにおいて注目を浴び、私が1964年に日本に戻る前に100人以上の米国の歯科医師が、私の提案を採用した。

私の米国滞在中、サンフランシスコでの歯科ミーティングで私がデモンストレーションをしている間に、私のところに男性が押し寄せてきて「オーストラリアにはいつ来てもらえるか?」と尋ね続けた。彼を追い払いたくて、根負けした私は「オーストラリアで、再会できるといいね。」と言った。彼はやっと満足して、私の名刺を取り上げ、オーストラリアから電話をかけ続けた。私がローマ・リンダ大学歯学部の学部長と彼のオフィスでミーティングをしている間に電話がかかってきて、学部長が受話器を私に渡してくれた。彼は「オーストラリアからかけています。」と言った。Martin Halasは、学部長の部屋まで私を追いかけてきたのだった。彼が「オーストラリアにいつ来られるのか教えて欲しい。でないと、またかけなおす。」と言ったので、私は来春と答えた。米国を去ってから1年後の事だった。 私は、オーストラリアは季節が北半球とは逆なので、来春とは6カ月後だと言う事を失念していた。まもなくオーストラリア歯科医師会の会長から招待状が届いた。Martin Halasは真のプロモーターであり、セレブというものがどういうものなのか、私に体験させてくれた最初の人間だった。 私の到着は新聞で報道され、大手の全国テレビの6時のニュースで、インタビューを受けることから講演ツアーが始まった。ツアーの後半には、多数の見知らぬ人々が私の事を認識して驚いた。テレビのインタビューアーは、私は患者治療の革新的なシステムを発明したと紹介し、それを説明してくれと私に告げた。 私は彼に口唇と頬が備わったプラスティック製の口腔模型を手渡し、「あなたが歯科医師だったら、口の中にどんな風に指を入れたいですか?」と問うた。彼は口腔模型を片手で持ち、もう一方の手の指で人工歯に触れて、口は上を向いて、座位の歯科医師の体は患者の頭頂部に近いところに位置しているのがよいと結論した。 彼は口腔模型を胃の高さに保持していたが、私が歯科医師は治療中に細部を見なくてはならないと伝えると、彼は口腔内の細かいところを見るために上体を前傾させる代わりに、口の高さを心臓のレベルに挙げた。それから私は彼に、彼の結論と彼がかかっている歯科医師の位置関係を比較するように言った。 それから私は歯科医師が用いるものは全て、人間としての結論に基づいて設計すべきだと述べた。彼は数分で答を導きだすことができたが、歯科医師は何十年も続けてきた習慣をリセットする必要があった。これが、世界中で行う事になる、患者治療をデモンストレーションする講演旅行の始まりだった、後に今日まで続いている、多くのコース・コンダクターによる卒後教育コースと精密なデータ収集が開発された。データは治療の位置と方法を治療結果と関連づけるものだった。 日本での私の初期のコースは、4つの治療目的に基づいた治療計画と時間管理に焦点をあてていたが、海外で行ったコースでは、インスツルメントと体の組織の接触点を精密に見て指を使用するための最適な体の条件に焦点をあてていた。 私は最初、歯科医師の指と目の使い方を、歯学部で学んだラテン語ベースの英語によって標準化しようとしたが、これは高度な訓練を受けたインストラクターが学生2人にインストラクター1人という高価につく比率で、受講生にはりついて手取り足取り教える事でのみ可能であった。私は歯科医院の全ての手順を網羅するマニュアルを英語で書き始めたが、すぐに英語はあきらめた。医学部・歯学部の専門用語は長くて、1次元・2次元のイメージに基づいていた。私には(空間と時間の)4次元で、インスツルメントや環境要素と人体上の平面、直線、点を関連づける名称が必要だった。私は最終的に、8つの数字分類とXYZと時間で、患者の治療記録や手順マニュアルに必要な項目を網羅できると結論した。日本、米国、ドイツの工場から供給される製品の販社によって、コースに必要な設備や通訳者、インストラクターが手配された。

1960年代には、米国の製作所(Ritter-Sybron)は、世界最大の歯科用器械のメーカーであり、ドイツのリター社の関連会社だった。私が西日本でコースを開催している時に、日本の会社(モリタ社)の社長から電話があり、京都に来て、米国Ritter社の社長とSybron社の副社長と会ってほしいと言われた。モリタ社はRitter社の器械をアジア市場向けに製造していたのだが、Ritter社は新型の器械を携えて、契約更新のために来日したのだった。モリタ社の役員たちは私のコンセプトを全面的に取り入れると決めていたので、森田福男氏は同社が製造したものを全て彼らに説明してほしいと思ったのだ。 私は米国の社長と副社長と、ホテルのスイートルームに優れたデザインのマネキン・ヘッドと、チューブ付きのインスツルメント類、はさみと段ボールを用意して1日のミーティングを行うように提案した。私はまず社長に、誰に対する責任が最優先だと考えているのかと尋ねた。彼は株主だと答えた。私は、医療分野において彼は大きな影響を及ぼす立場にあり、患者が第一、医療従者が第二、株主は第三という優先順位に同意できるかと尋ねた。最後に彼は同意した。 マネキン・ヘッドとインスツルメントやチューブ、段ボールを切り取って、自分が歯科医師として、また患者としてどういう条件を望むかを探るためのシミュレーションの実習を通して、彼は最後に同意するにいたった。昼食時にRitter社の役員たちも納得し、それまでのモリタ社との契約内容を逆にして、彼らがモリタ社の器械を製造するための契約にするように要望した。その中には、私が米国の工場の製造技術部門で数週間、ドイツの工場で数週間仕事をするという条項が含まれていた。 米国の工場に到着すると、社長はアメリカ歯科医師会の役員たち、大学の学部長たちを含め、80人の歯科医師が来ることになっていると告げた。彼は同社の役員たちと同様に、私が彼らを説得できるかどうかを見たいと思ったのだ。彼らの報告によって、将来どうするかを決めるというものだった。好ましい報告がなされ、彼らは興奮したが、役員会では一つの問題が繰り返し取りあげられた。彼らの市場は世界中のディーラー・ネットワークに依存していたが、ディーラーはショールームで、多種多様な器械やインスツルメントを提供していた。歯科業界のディーラーは歯科医師の指のコントロールより、自分たちの生存の方を優先しており、私のコンセプトは、多種多様な製品のニーズをなくしてしまうと考えられた。最終的にRitter社はエンド・ユーザーの利益を優先する私のコンセプトの方が、ディーラーの反応のリスクよりも重要だと考えた。 その結果同社は、ディーラーを介した製品販売の枠外でシステム・コンポーネントを提供する事になり、破産に追い込まれた。米国やドイツの工場で私が共に仕事をした多数のエンジニアたちや労働者たちを含め、多くの人々が失業した。この事によって、無計画な医療における雇用対無駄の排除という疑問が持ち上がった。若い頃の自分なら、信頼性があり無駄のない医療より、雇用の方が大切だと考えたかもしれない。これは、産業時代の経済が抱える矛盾である。 私は、歯科医療のような分野において、企業との提携がいかにして世界的な評価を作り上げるかを体験した。他方で、企業間の競争によって、それは悪評に転換されもした。富める国の歯科医師がなぜ貧しい国に流れ着いたのかという噂がすぐに広まった。 一般に、大学でも製造技術部門、大型の医療機関でも、トップの意思決定者は私のアイデアを歓迎してくれたが、企業、学術界、あるいは他の分野でも、はしごを登りつつある中間層は私のコンセプトを採用すれば彼らのはしごに将来はないと感じた。組織全体の環境に関心を寄せるトップの人々にとって、はしごを登りつつある中間層も必要だったので、それが彼らのフラストレーションとなった。

残りの1960年代、私は治療計画を主体とした卒後教育コースに時間を費やし、日本中の様々なホテルで患者治療のデモを行ったが、これが後に3日コースに進展していった。何百人、何千人という歯科医師が、1日8時間私の患者治療を見学し、治療結果の正確さをチェックした。 一つ私が実証しなくてはならなかったのは、患者は水平位で治療を受けても溺れないという事だった。当時、歯科のあらゆる手順や外科処置に適用できる、精密な指のコントロ―ルと精密な視線のための原則に自信を築いた事が、やがて世界中の歯科大学、国際標準組織、専門家グループやWHOのトップの人々と仕事に取り組むことへの準備となった。