GEPEC便り 3月号 -no.12-

皆様、

今回は、DBのわが思い出の記「第5章 日本大学歯学部、臨床教授就任」をお送りします。 日大の創設者である佐藤先生の依頼を受けての就任だったとはいえ、若輩32才のアメリカ人が臨床教授として乗り込んできて、周囲の大反対をものともせず、次々と学内の変革を行ったのですから、さぞかし嵐のような日々だったろうと推察します。 真偽のほどは分かりませんが、当時をご存じの高江洲先生(元東京歯科大学教授)が昔「Drビーチは使用禁止にした薬剤類を日大の前の神田川に流したという伝説がある」とおっしゃっていたのを思い出しました。 当時のDBの人生に思いをはせて「失うものがない、失う事を恐れない人間は強い。」と痛感しました。

Dr Beach わが思い出の記(和訳)

第5章 日本大学歯学部、臨床教授に就任

私は1958年9月、歯学部の学生を教えるべく日本大学歯学部に赴任したつもりだったが、当時80代だった創設者のDr佐藤には別の計画もあった。私は32才にして、教授かつ日本大学歯学部病院の院長代理に任命されたのだ。Dr佐藤から、6カ月以内に同学部の評価結果を報告するように言われた。日本では歯科医師免状を得るための国家試験を受けるには、歯学部での6年間の教育が必要だった。各学年に200名の学生が在籍していたので、歯学部には合計200x6=1200名の学生がいた。さらに、博士号(PhD)を取得するため4年間研究に従事する大学院生が200名いた。院生たちは、歯学部で4年(以上)の間教授の奴隷として仕え、彼らがなしとげた成果の多くは、教授のお手柄という事になった。教授たちは、いい身分だったのだ。 Dr佐藤への私の評価報告には、建物、設備、器材、患者の経験、様々な臨床検査、治療計画、治療方法や治療結果が含まれていた。1958年~1960年日本はまだ医療に費やす技術的資源に乏しい国だった。 それだけではなく、日本の最初の歯科大学4校の学長たちが1900年(!)にシカゴ歯科大学で使われていたシステムを導入し、厚生省がそれを元にして患者治療の標準政策を策定したおかげで、私はフラストレーションに陥っていた。私が着任するまで、全ての歯科大学において、患者治療に関する学生の必須要綱は全く改訂されていなかった。米国陸軍は、日本が占領下にある期間に患者治療のパターンを変更するよう指令を出したが、大学に出向いて日々の診療を調べた訳ではないので、何も変わらなかった。 私は1年目の報告書に、校舎に関して「校舎はしっかりした造りだが、第二次大戦中に米軍の空爆にあい、窓が割れたなど修理が必要な個所がある。」と書いた。高い天井から漆喰が剥げ落ちてクリニックの患者や学生の上や床に落下してきたので、200人の学生を動員して、天井や壁、窓を掃除するように指示し、環境衛生に関する彼らの認識を高めようと思った。Dr佐藤はこの掃除デーの計画を承認した。学生たちと私は掃除を極めて楽しんでいたのだが、突如、教授会の委員長が退出命令を出した。クリニックの掃除をするなど、大学の学生たる者の沽券にかかわるという理由だった。幸い、退出命令が出た時に、掃除はほぼ完了していた。農場育ちだった私は、大学入試だけのために勉学に勤しんできた学生達に肉体労働を体験させるのは、貴重な教育の一環だと考えたのかもしれない。(中国の文化大革命時に毛沢東が学者たちを数年間農地に送り込んだのは賢明だったと思う。)

大学のクリニックの器械は、背面がわずかに傾斜した患者用の椅子を主体としていた。これはオレゴン州の私の母校も同様だった。日本では歯学部学生は全て、患者の前に立ち、利き手と指を患者の頬組織と頤に置いて安定させ、あらゆる治療を行っていた。Dr佐藤に、なぜそんな指のコンタクトが安定しない状態で治療をするのかと尋ねたら、彼は日本の死因の第1位は結核なので、歯科医師は口腔内に指を入れるべきではないのだと答えた。私が日本大学に就任した頃は、すでに事情は変わっていたので、私はためらう事なく、学生に指を口腔内に入れるよう指導した。オレゴン大学では術者は下顎の場合は、患者の前に、上顎の場合は患者の後ろに立ち、マウス・ミラーを使って治療をしていた。高速ハンドピースを製造していた大手メーカーの数社に何本か自前で購入するので、大学に寄付をしてほしいと依頼した。(大学は高額なので購入できないと言っていた。) 海軍病院では、私は手術台に患者を横たわらせ、患者頭部の上方に座って治療をし、インスツルメントと歯牙の接触点の隣にフィンガーレストを置いていたので、インスツルメントを安定させ、コントロールするのに全く問題はなかった。しかし、しばらくの間日本大学で高速ハンドピースを使用するのは中止した。というのは、学生が指と歯をコンタクトさせずに間違ったポジションで切削しようとして、隣在歯を切削し、悪いところを治すどころか、患者に害を与えてしまったのを目撃したからだった。問題を解決するには、患者が完全に安静な、平らな仰臥位(眠っている時の姿勢)をとり、学生は水平な患者頭部の上方に座り、よりよい指のコントロールができるような診療台を設置する以外に打つ手はなかった。そんな診療台を製造しているメーカーはなく、政府の標準もなかったし、大学の教官たちの習慣を変えるのが最大の難関だった。3年後に教官たちは新校舎の建築を決定した。当時、日本は洋式のビル建設に湧き、質の高い車やカメラが生まれ、ベトナム戦争の軍需で米国からの注文が増え、新幹線や東京オリンピックの準備と日本経済は急騰していた。 私は新校舎計画委員会の5人の委員の1人に任命されたが、1階スペースの50%が私と私の大学院学生のためのクリニックに割り当てられた。私は建物のエンジニアリングについて多くを学ぶにつれ、建築士の役割について懐疑的になっていった。(尊敬を失った。) 当時の大学クリニックの私の患者は、ほとんどが大使館や国際ビジネス関連の人たちだった。私は通常3時から深夜まで診療していた。それより良い時間の使い道を知らなかったからだ。大学から高額の給料をもらっていたのだが、大学にも貢献する事になった。短期間のうちに、私の稼ぎのおかげで大学は収益をあげるようになり、クリニックの改築・増築が行われた。海外から来た患者さんたちは、よく私に米国の歯科医師の方が経済的にはるかに良い条件なのに、どうしてこんな貧しい国で診療しているのかと尋ねた。米国大使館の経済大臣は、私が一体どんな所に住んでいるのか好奇心にかられたのか、雪の降る夜、治療が終わった後に彼のリムジンで私の家まで送ってくれた事があった。大工さんの家の1室を間借りしていた私は、彼を招きいれた。それは典型的な日本家屋で、灰の中に炭を入れた火鉢があり、手をかざして温めたり、お茶を沸かしたり、料理をした。当時私は後に結婚する事になる歯科衛生士と同棲していた。部屋の押し入れには、缶詰食品や布団、座布団が入っていた。 こんな所に住んでいるのか!大臣は、大使館ご用達の歯科医師について、大使館のパーティ・サークルで多くの人々にこの話を披露した。やがてジェット機が普及するようになると、多くの国から紹介患者たちが来院するようになり、ジェット機で飛び回る富裕な人々のための世界の歯科治療を目にするようになった。金持ちたちは往々にして、複雑な補綴処置を要する高リスクの治療がよいのだと信じ込まされていた。 大使館のパーティ・サークルの一員になると、多くの時間が取られる事が分かった。大使や大臣のホームパーティに数回出席した後、私は自分の代理として秘書の女性を送り込ことにした。彼女の魅力的で、パーティ好きの人柄はまさに適任で、私の不在を気にする者はいなくなった。私には患者の口腔に指を入れて過ごす夜の方が楽しかった。  大学の器材、薬剤、患者の経験や治療パターンに関してDr佐藤に報告書を提出すると、大学の器材、薬剤、学生の必須臨床要綱を決定する各委員会の委員長に任命された。 衛生ケアの導入: 私は毎日学生10人を選び、私のクリニックで8時間を過ごさせた。そこで診査記録、全顎の治療計画や患者とのコンサルテーション、歯牙の刷掃を含むセルフケアなど詳しい口腔の清掃や、充填、外科処置、患者の予約、当時の日本には存在していなかった歯科医師と患者の位置関係などを見学させた。歯牙清掃のデモンストレーションのために毎日学生1人を患者役に選んだ。毎朝、10人の学生を壁際に口を開けて並ばせて、(本人には言わなかったが)最も口が汚い学生を1人選んで、患者役にした。妥当な理由があったのだが、当時学生も教官も歯牙の刷掃はしていなかった。 当時2社が歯ブラシを作り始めていたが、まだ歯科大学には到達していなかった。衛生士は、セルフケアの指導のために口腔の1側だけをスケーラーや(パミスと呼ばれる)細かい砂で清掃し、反対側との違いを示した。反対側をどのように清掃するかは各学生に任されたが、口腔の半分はきれいで半分は汚いという状態に、彼らのモチベーションがあがり、同級生同士で残り半分の清掃を完了した。1日10人ずつで200人の学生を網羅するには20日かかった。最初の1週間は50人の学生の中で汚れた口を見つけるのは難しくなかったが、2週目には汚れた口を見つけることはできなかった!学生達はクラス会議を開いて、私のクリニックに来る前にスケーラーで同級生の歯を清掃し、研磨する事にしたのだった! このような経緯で日本の歯科大学に歯科衛生が導入された。翌年には、この経験をした学生数名が他校のインストラクターになり、各学生のトレー上の16種類の薬剤を除去し、その代りに歯ブラシを置くという規則が追加された。歯ブラシのメーカー2社は、私と衛生士(水戸蓉子)を豪華なディナーに招待してくれた。 蓉子は後に日本衛生士学会を設立し、衛生士学校のカリキュラムを再編し、衛生士の職務を明確化した。彼女の同級生達は、歯科医師が行う処置を全て行えるような教育を受けた。衛生士学校の教官は歯科医師であったが、蓉子の指のコントロールが優れていることを知っていたので、彼女に自分の歯の充填や抜歯をさせていた。 二人の歯科医師が診療経営コースを開催しはじめ、患者の治療は全て歯科衛生士に任せ、歯科医師は書類に記入するだけという方法で金もうけをする方法を伝授した。当時日本には歯科大学が6校しかなかったために、規則はルーズであった。蓉子は政府の法律改訂に貢献し、衛生士学校のカリキュラムを再編し、衛生士の誤った使い方を減らした。私は日本衛生士学会の第1回会議にメイン・スピーカーとして招かれた。衛生士がどのような職務についているかという詳細なデータを集めて、檀上で板書しながら報告したところ、同会議出席していた政府の官吏が、私が教授としての役割を遂行していないと学長に報告した。 Dr佐藤と副学部長のDr永井は、私を器材委員会、臨床治療要綱委員会、薬剤委員会の委員長に任命することに決めた。その結果、日本大学は厚生省の観察下におかれる事になった。同校が余りにも多くのことを変更したので、従前の日本の標準に則って、定期的な認定更新ができなくなったからだった。 私と大学との契約は2年間だったが、患者治療の変更に関して教官たちも学生たちも賛成派と反対派に分裂していた紛争を解決し、政府の観察措置が解かれるようにするために、契約期間の延長に同意した。 紛争のクライマックスは、私が実施した様々な変更や亜ヒ酸、シェル・クラウン及び学生のトレー上の16種類の薬剤の使用禁止に反対してストライキを行うように、教官が6年生の学生たちを扇動した事だった。私が就任した初年度の間に計画された学生によるストライキは、6年生の級長だったショウジ(Dr東海林)によって回避された。彼は私のオフィスを訪れ、1週間後に学生ストライキを起こす予定だと伝えた。 主な理由は、私が設定した新しい治療要件は、オレゴン州のものをたたき台にしていたが、日本文化にはそぐわないので、実施できないという事だった。私は、彼の清潔とはいえない口に大きな窩洞が幾つかあることに気づいた。それを記録してもよいかと尋ねたところ、彼は同意した。 その記録を基に、私は彼に以下の3種類の治療計画を提示した;1)患者として彼が望むだろう治療、2)私が提案した学生の治療要件に基づいて、大学で彼が受けるだろう治療、3)大学が1900年に設定した要綱に逆戻りすれば、彼が受けるだろう治療。 彼は、少なくとも8回の来院で、亜ヒ酸で神経を失活させ、既成のシェル・クラウンを装着するという従前の大学の治療要件ではなく、1回の来院で口腔内の窩洞2か所の充填を行うという私の計画を受け入れた。 クラスの学生達がどちらを選ぶかは、彼の手腕にかかっていた。彼は後日、私の提案する変更に納得したので、ストライキは中止すると伝えに来た。私は学生達だけではなく教官の間にも強い抵抗感がある事を察知したので、クラスで最も尊敬されている学生10人を連れてきて、彼が経験した事を検討してもらえば、何人かは亜ヒ酸ではなく局所麻酔下で充填治療を受ける方を選ぶだろうと提案した。これらの学生達も私に賛同し、彼らが教官たちの見解を覆した。さらにストライキは教官達が仕組んだものだったと言うことが後になって判明した。善かれあしかれ、学生達は私の任期延長を望んだ。少なくともDr佐藤はこの結果を喜ばれた。 このような動きは全ての歯科大学や厚生省の注意を引いた。私は全歯科大学の教授の会議のメイン・スピーカーに選ばれた。1958年と1963年~65年の学生の臨床要綱を比較すれば、私の活動が当時の日本の歯科大学に及ぼしたインパクトが分かるだろう。 デンタル・スタディ・クラブの設立: 4つの治療目的に基づく治療計画、3つの対象の分析(*F123)や患者治療に関する他の数字による分類などのコンセプトを取り入れた歯科医師たちが、幾つかの地域でスタディ・グループを設立した。 私は数字が最も覚えやすく特に歯科大学で学んだような長ったらしい専門用語の翻訳の手間も省けるので、全てを数字による分類にした。数字の順序そのものが連想を想起するし、問題志向の学習にとって適切な構造を提供した。その後、健康を0と定義し、治療手順を健康からの距離に基づいて1桁数字で記録するという分類(*Health Oriented Index)がWHOの注意を引いた。しかし、日本の歯科医師の間では、私が考案した分類の中で4つの治療目的が最も広く認められることになった。治療目的の1)衛生、2)組織の抵抗力、3)望ましい口腔の力、4)望ましい口腔の外観について、コースの中で細かい定義が紹介され、ぼんやりと記憶された。 しかし、1、2、3、4という4つの目的は、各数字が意味するものはさておき、何十年経った後にも明確に記憶に残っている。 私は2000年に「勲3等瑞宝章」という勲章を天皇陛下から授与された。叙勲者の背景は秘密裡に、徹底的に調査される。私は文部省の推薦だったので、日本大学に赴任していた時代に日本の歯科大学の治療パターンを変革した事が評価されたのだと思っていた。但し、教授としての私の活動-学生対象の活動や、様々なスタディ・グループ、学外の会議に関する活動には賛否両論があったので、叙勲の理由からは除外されたのだと推察する。当時の私のビザは、特定の大学の教授という役割だけに限定されていた。後に調査に関わった担当者から、私の日本の歯学研究と教育における功労に対して授与されたのだと聞いた。私は1970年代~80年代に、体の条件と環境条件を関連づけ、精密な指のコントロールを行うためのデータを記録する方法を開発した。このデータによって、指を主体とするスキル、作業点に対する視線コントロール、治療手順に用いる機能物を統合するための原則を確認することができる。 1962年 アラスカに戻る: 私は1962年にアラスカに戻った。オレゴン大学歯学部の同窓生がアラスカに医科・歯科のクリニックを開設していて、私に加わって欲しいと依頼したのだ。私はアラスカに行く事など毛頭考えていなかったのだが、彼は有能なセールスマンだった。私を説得するために来日し、米国では歯科医療が急速に変化しているので、最新の歯科医療に追いつくために帰国すべきだと言った。私は「最新の」という表現は妥当ではないと知ったのだが、1年間は戻ると約束した後だった。彼は日本よりアラスカの方がはるかに高額の収入を得ることができるので、私もアラスカに落ち着くだろうと考えたようだったが、お金もうけや所有の梯子を昇ることは私にとって最大の関心事ではなかったし、アラスカの歯科医師たちと毎週会って交す会話の中身は、自家用飛行機や、お金、所有物の話題ばかりで、退屈だった。それで、私は香港経由で日本大学に戻ることにした。 法務省が日本での教授としての私の活動が不当なものだったと考えたので、私は香港に数週間足止めされたが、この間中国人のクラスメートと香港で診療するのは楽しかった。幸運にも、以前滞在した時に香港の歯科医師免状を取得していたのだ。この3回目の調査もまた、私の利にかなう結果となった。彼らは調査の結果、私の活動は日本に恩恵をもたらすものだと結論して、大学外での自由も許可するビザを与えられた。

~「第6章Engineeringの仕事」へ続く~

昨日は新元号「令和」の発表に日本中が沸き返った一日でした。 実は「元号」というのは、とても通訳泣かせなのです。国際会議の開始直前に演者のCV(履歴)が届く事は珍しい事ではありません。日本人の場合、元号表記の事が多く、座長が猛スピードで紹介する演者の履歴を同時通訳しながら、昭和は+45、平成は-12と必死に暗算・換算するのですが、算数の苦手な私には、これ以上の暗算は無理です。今後は、換算せずに、Heisei30とかReiwa1とかそのまま使うしかないなと思っています。というより、国際会議では西暦を使ってほしいものです。 では皆様、寒暖の差が厳しい中、お体ご自愛ください。 GEPEC事務局 三明