GEPEC 便り 1月号 -no.10-

前略。インフルエンザが猛威をふるっていますが、皆様お元気でお過ごしでしょうか?今月はDaryl Beach わが思い出の記、第4章(和訳)をお送りいたします。  

DBわが思い出の記 : 第4章 Dr峯田拓哉との出会い 

1955年、私は興味を示してくれるかもしれない日本人の歯科医師に紹介しようと、高速ハンドピースを携えて東京に出向いた。

もう一つの偶然:国鉄東京駅に降り立って、周囲を見回したところ、目前の建物の高層階に歯科医院の看板を見つけた。受付員が、そこでグループ診療をしている先生方の中から、Dr峯田拓哉を紹介してくれた。彼は英語が堪能であるだけではなく、日本の歯科医療を改善したいという強い思いを抱いていた。私は日本人の見解について多くの事を彼から学んだ。

私の親友、Dr峯田拓哉

                            https://www.drdarylbeach.net/wp-content/uploads/2017/10/Dr-Takuya-Mineta.bmp後の彼の自死は、都市開発のスポンサーが地上げ屋と結託するという日本の暗黒面と関連していた。私は1955年から、当時軍部がまだ採用していなかった高速ハンドピースや高容量バキュームなどの新しい機器を自分で購入していた。そこで海軍は空軍や陸軍の基地に私を派遣し、デモンストレーションを行わせた。

さらに、私は日本の歯科大学や東南アジアにも出向いて、デモをすることになった。東南アジアでは、私は戸外でデモを行っていたのだが、その時初めて、患者を平らなテーブルの上に横たえて治療する方が指のコントロールが上手く出来るという重要な事に気づいた。

この事は、その後の私の人生に深い影響を及ぼすことになった。海軍病院に戻って最初にした事は、海軍のデンタル・チェアを平らにすることで、それには診療台やキャビネットの配置変更が必要だった。週に1度のクリニックの点検が行われる時には海軍のスタンダードに合わせて、配置を全て元に戻さなくてはならなかった。

日本の歯科メーカー5社の技術者達から、電動インスツルメントに関する彼らの技術開発の成果を評価してほしいという依頼がきた。それらの企業は、歯科大学とのミーティングだけではなく、各地の歯科医師会との多数のミーティングも企画した。私は多くの贈り物をもらったが、いつの時代にも余分な物を置くスペースがない狭い部屋に住んでいたので、いつももらった翌日には誰かに譲っていた。

海軍病院での生活は快適だったが、ある日誰かに、ベトナム行きを志願するつもりはないかと聞かれた。私は、色々な面で海軍組織を大いに尊敬していたが、 武器と愛国心が中核になっていた事は残念だった。私の海軍の同僚たちはこの戦闘に賛成しているようだったが、私は反対だった。彼らとの良好的な関係は冷えてゆくだろうと予測できた。海軍に残れば、35才を迎えるまでに、ベトナムは自分が体験する3度目の戦争になるだろう。ベトナム戦争に反対だった私は、合計8年余りの現役任務に従事した後、1958年に海軍を退役した。

日本で最初の歯科大学4校のうちの一つを創立された佐藤先生は、私の高速ハンドピースを用いた患者治療のデモを見られた。当時彼は80代であったが、歯学部の何人かの教官を海軍病院に派遣し、私に日本大学で教べんをとってほしいと依頼された。それは私がネバダ州ラスベガスに移管される直前の事だった。

私は、日本の歯科大学で2年間教えるのは面白い経験だろうと思って承諾し、2~3か月以内に日本に戻ることを約束した。7年間の海軍生活で初めて、船で米国に戻った。

数日間、台風の中を航海した。船長は、自分の30年間の経験の中で最悪の航海だと言った。台風の最中に、私は歯の膿瘍の治療をしていた。小型の船舶は揺れに揺れたが、女性患者は痛みに苦しんでいたので、抜歯することにした。私は腕を彼女の頸と頭部に回して固定し、私と彼女は一体となって揺れながら、麻酔注射をして、抜歯した。彼女は怯えきって、私の肩にしがみついてきたので、私たちはますます互いにロックされて一体となった。私は宇宙での歯科治療の方法を体得したように思う。

私は、世界中で最も乾燥したネバダ州の砂漠の中の海軍基地から解放されて、日本に戻った。ネバダ州に送られたのは、上官二人が、私の活動は海軍の使命に反していると考えた事に端を発して、徹底的な調査を受けたためだった。彼らの疑いはさらにエスカレートしていき、私は日本人向けにデモをするために海軍の備品を盗んでいるとか、ロシアのスパイだとか報告した。彼らの密告の顛末として、私は西太平洋の海軍大将から推奨レターを受け取った。海軍大将は2つのコメントを書いていた;

「私は君に海軍に留まってほしいと思う。なぜなら君の将来は、監獄行きになるか、大将になるかの2つに1つだと思う。それを自分で見届けたかった」。また「海軍は経費を無駄にはしない。君の調査には大変な費用がかかったから、君にトップ・シークレットのクリアランス(最高機密情報使用許可)を与えることにした。そのため君はネバダ州の極秘の基地に送られることになった。」

その基地とは、原子爆弾の試験場だった。

私はほとんど毎晩ラスベガスで過ごし、基地で得た情報を元に、もっともよく出るスロット・マシーンで遊び、無料のショウをみて過ごした。 後に基地の歯科クリニック長の采配で、私の診療日は週2日になった。彼は、私が去った後にクリニックの治療記録が激減するのはまずいと判断したからだ。それで私は大半の時間をラスベガスで過ごすことになったのだが、ラスベガスから、歯学部の学生を教えるために日本に戻った。

私のプライベートな人生と、こだわりについて少し述べよう。私には所有に対するアレルギーがある。住まいを所有したことも一度もない。交通信号が増えてくるにつれて、車の所有や運転は自由を損なうことになると判断して、32才の時に車の運転もやめた。

我の強い5人の妹たちと育った私には、自分は妻を所有しない方がいいと分かっていた。私は、大きな車、自家用飛行機、スピード・ボートや豪邸などに囚われているクラスメート達を羨ましいと思った事は一度もない。

所有しない自由(所有から逃れて自由を保つこと)は、私にとっては重要な事だったが、家庭生活には軋轢を生んだ。幸いにも、私の息子と娘はエレガントな大人に育ったが、二人の母親達が子育ての責任を全うしたおかげだ。誰でも彼らの事を誇りに思うだろうが、少なくとも私は彼らを飢えから守った。