GEPEC 便り 12月号 - no.9 –

前略。大晦日を明日に控えて、皆さま慌ただしくお過ごしの事と思います。今年8月に貴会との合同事務所に転居して以来、GEPEC事務局/ランセンターも新しい一歩を踏み出しました。
これまでもGEPECとpd普及の会は協力関係にあったのですが、同じ空間を分かちあうことによって、今までは全く知らなかった事に気づく事ができるようになり、両組織の結束がさらに強まったように感じています。あらためて活動の「見える化」の重要性を痛感した半年でした。今回はDBの思い出の記の第3章をお送りいたします。
皆様、良いお年をお迎えください。来年もどうぞよろしくお願いいたします。                          GEPEC 事務局 三明                                                                      2013年DrSittichiと。

DB わが思い出の記 「第3章 横須賀の海軍病院へ」(訳)
1951年に24才で大学を卒業した時、自分でしたくない事に従事する私の人生は終わり、自分でしたい事やプロジェクトの人生が始まり、翌年には朝鮮戦争中の米国海軍に召喚された。当時、私は口腔外科医と共に個人開業していたが、サンディエゴに送られ、そこでも“成り行き”で、日本にある大きな海軍病院に配属される事になった。
私は患者の口の中に指を入れて処置をするというのは、時間の過ごし方として悪くないと気づいた。そして患者を治療するのに最も楽で簡単な方法をあみだす事に専念した結果、海軍配属の歯科医師に寄せられる期待をはるかに上回る結果を達成していたのだが、そのために私の活動に最初の調査が入ることになった。私の治療記録は偽造であるか、劣悪な質なのだろうという報告があがっていた。
私の患者の多くは治療を受けた後、カルテと照合して秘密裡の検査を受けた。幸か不幸か、この患者の調査がプラスに働いて、私は日本に赴任することになったのだった。私の同僚たちは軍艦に配属されたが、私は船上で過ごすのは好きではない事に気づいた。上官に船上の任務を回避するにはどうすればよいかと相談したところ、当然の事だが、それなら、どうして海軍に入隊したのかと問われた。彼は、管理部に出向いて、海外の陸上の任務を志願してもよいが、そうすれば、却って即座に軍艦に配属される事が多いと言ったが、私の患者達とカルテが秘密裡に調査された結果、私に推賞が与えられたから、それが役に立つかもしれないと教えてくれた。
管理部で、私は海外の歯科診療部がある海軍基地を記した古びた世界地図を見せられた。私は当時ドイツ語ができたので、赴任地として最初ドイツを希望したが、担当官はその基地は気候が悪いと却下した。次に選んだのはスペイン、その次はハワイを選んだが、彼は次々と却下した。それで、一体どこへ行けばよいのかと聞いたら、日本の横須賀海軍病院が世界中で最高の赴任地だと答えた。それで私は承諾し、まもなく日本に上陸した。日本の最初の印象は、“ここは、混雑した国だな”というものだった。
それ以来、私の人生には、自分の関心に基づいて、急速に変貌を遂げる時代に適合した、あるいはその先をゆく、プロジェクトが次々に舞い込んできた。
私に国や国旗への尊敬が欠落している事は、父の影響が大きかった。父は国旗を毛嫌いしていた。なぜなら国旗は乱暴者や何も分かっていない者たちが振りかざすものだと考えていたからだ。彼は世界第一次大戦中にドイツ人の居住地区に住んでいた。穀物の大手会社がHuns(注:戦時中のドイツ兵の蔑称)への反感に乗じて、揚穀機と呼ばれる供給ポイントでドイツ人から穀物を買い取る際に、実際より少なく秤量していたのだ。
彼らはドイツ人の家に、米国の大きな国旗を振りかざしながら、押しかけてきて嫌がらせをした。ドイツ人がリンチに合うという事件の後、隣人たちは自警団を組織し、インディアンのように狼煙の合図で、乱暴者たちが家にやって来る事を知らせあった。Beachは、近隣で唯一ドイツ系ではない苗字だったので、父が秤量のインチキや国旗を振りかざす乱暴者たちの襲撃を阻止するための“非パルチザン同盟”の団長に任命された。
父の役割を知って、大手の穀物会社は父を売国奴と呼んだ。父にとっては、乱暴者たちが支持する国家よりも、心優しいドイツ人の隣人たちの方が、はるかに重要だったのだ。私は第二次大戦中に、海軍で自分が率いる隊員に国旗への敬礼を命じたことは一度もない。1940年代に、国家の儀式に反発し、熱戦・冷戦に反対して、Pinko(注:赤ではないピンク。共産党のシンパに対する蔑称)と交流していた事から、私自身コミュニストだと呼ばれていた時代があった。
1953年に朝鮮戦争が終わると、私は海軍を去り、オレゴン州での口腔外科医との個人開業に戻った。私は海軍病院で多数の外科手術を経験しており、麻酔医と2名の外科ナースと共に口腔や顎骨の手術を手術台で行った。手術台は大きな手術室にあり、他の一般外科医たちも手術をした。私は、クラスメートだった歯科医師たちが登っていたお金もうけや所有のはしご登りには、全く興味が無かった。
この事は往々にして家族にテンションをもたらした。私は日本でのシンプルな生活が懐かしくなった。人々は、眠る時も起きている時も床の上で過ごし、車や家、お金など個人の所有などを超えた、様々なアイデアや計画について何時間も話しこんで夜が更けることもあった。私は歯科軍団の団長に、もし日本の横須賀に再赴任させてくれるなら、現役任務に戻りたいという趣旨の手紙を送った。彼から即座に、次の指令書が発行されない限り、90日以内に私の都合のよい時期に赴任地に行けばよいという返事が届いた。私が病院に到着した際、診療部長は事前の通知を受け取っていなかったので、不思議に思ったという。海軍の指令で、このような自由行動が許されるのは先例がなかったからだ。おそらく私は同僚の誰よりも多くの時間を、患者の口の中に指を入れて費やしていた事が評価されたのだと思う。
歯科医師は、充填やクラウン治療のために歯の切削に多くの時間を割いていた。60年もの間、歯科医師は、指で強い圧をかけて、低速回転装置を使って切削していたのだ。私は高速回転にすると切削時間も切削圧も削減できるという研究論文を見つけた。この論文は、患者と歯科医師の双方の恩恵につながる装置の改良をめぐるメーカー間の競争の火ぶたを切った。私は機械工の患者に高速ハンドピースを使えるように計らってもらった。ところが、切削中にハンドピースが手で持てなくなるほど熱くなるという問題があった。そこで、私は一人のアシスタントに、熱くなったハンドピースを水の中に漬け、別の1本をコネクターに接続して、患者の口元に置いた私の手に渡してもらう必要があった。もう一人のアシスタントは、バキュームを保持し、充填材や他の材料の準備を担当した。