GEPEC 便り 11月号 - no.8 –

前略。今週は暖冬で過ごしやすい毎日ですが、いかがお過ごしでしょうか?今月は前月の続編で、DBが自ら書き遺した「わが想い出の記」第2章の和訳をお送りします。読み返してみて、歯科とは離れたところでのDBの“人となり”が偲ばれました。風邪が流行る季節になりましたので、皆様お体ご自愛ください。    Gepec事務局 三明

Daryl Beach わが想い出の記 第2章

2. ポートランドへ

私が高校生の時、真珠湾攻撃が起こった。その後、高校高学年の生徒は、米国政府の一斉試験を受ける事になったが、試験に関する事前情報は一切与えられなかった。試験用紙には、陸軍か海軍のどちらかを選択する箇所があった。私は、海軍のネイビー・ブルーの方が陸軍のカーキ色より女性受けするだろうと思って、海軍の方に印を入れた。私ともう一人の生徒が試験に合格し、大都市オマハに出向くように指示された。もう一人の級友は陸軍を選んだので、オマハの別の場所に出かける事になった。面接を受ける前の待合室で、同席した生徒は私に何を専攻するつもりかと聞いた。

私の頭には農業だけしか浮かばなかったので、そう答えると、彼は海軍志願者に農業の選択肢はなく、工学、基礎科学、医学、歯学の4択だと教えてくれた。彼が医学部と歯学部は教育年数が長いと言ったので、私の選択肢は狭まった。私は愛国者ではないので、戦場に派遣されるまでの期間をできるだけ長引かせたいと思ったのだ。医学を選ぶことも考えたが、彼は自分の父親は歯科医師で診療時間は一定しているが、医師は夜間でも往診に出かけなくてはならないと言った。

私はわが家のファミリー・ドクターだったDr. Wertmanの事を思い出した。彼が雪の降る中、ポンコツ車を7マイル(約11km)走らせて往診してくれた冬の日の事を思い出し、歯学部に進もうと決めた。私がそれまでの人生で歯医者にかかった事があるのは、一度だけ、乳歯を抜いてもらった時だったが、幸か不幸か、面接官は余り質問をしなかった。私は歯科医師になる計画を立てていたのではなかった。実際、人生の何事についても、長期計画など立てたことはない。人生は一連の出来事が起き、その時その時で決定を下したところから、色々なプロジェクトが始まった。

私は、肩書のはしごや、財産のはしご、承認のはしご、所有のはしごなどを登ることには一切興味がなかった。私は、最初から頂点に着地するか、底辺に居座るかで、社会のはしごを登る途中の時代はなかった。

1943:二つの大きな波

家族は、オレゴン州に転居する事になった。ネブラスカ州は干ばつだったが、オレゴン州はそれを補うかのように降雨量が多い地域だった。私一人だけネブラスカ州に残って、小学校8年生までを教える事ができるネブラスカ州の教員免状を取るための正規の研修コースを完了した。

高校の卒業式の夜、私はオレゴン州に移ったが、そこでは18才になると兵役に就くため徴兵される事になっていた。私は陸軍や海兵隊に配属されるのを避けるために、徴兵される数日前に海軍に入隊し、アイダホ州Farragutのブート・キャンプ(新兵訓練施設)に送られた。

私はいいかげんな新兵だったし、だらしない恰好をしていたので、大隊長のところに送られ、叱責を受けた。ネブラスカ州で受けた一斉試験の結果がオレゴン州に届いてまもなく(当時報告書の転送には時間がかかった)、私は連隊本部に呼び出され、大学の新学期が始まるまでは家に帰ってよいと言われた。

そうと知ったブート・キャンプ(新兵訓練施設)の指揮官は、信じることができなかった。戦争の真っただ中に、市民として自宅に戻ってよい新兵など、いるはずがなかった!!でも、私は大学で落第してしまった場合、新兵として訓練を一からやり直すのが嫌だったから、ブートキャンプを終了することにした。
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セーラー姿のDaryl

1940年代:大学時代
私は3つの大学に通った。最初はモンタナ州のキャロル大学。ここでは政府の奨学生は、4年間のカリキュラムを2年8カ月で完了するよう義務づけられていた。V12 premed-dent プログラム(医学部・歯学部課程)を所定の期間内に終了できない学生は多数いたが、彼らは海軍パイロットの任務を得ることができた。 私たちは、ドイツや日本と戦っている他の軍人たちからは疎んじられていた。

誰かから「V12の意味は何だ」と聞かれたら、私たちは「12年で勝利(Victory)を納めるか、闘うかだ」と答えた。私は18才で、しつけが悪い医学部・歯学部準備教育課程の学生84人の部隊の指揮官になった。指揮官の仕事の一つは、朝全員を1列に並ばせ、服装を検査する事だったが、私は誰よりもだらしない恰好をしていたし、汚い靴を履いていた。おそらく、そのために私は終戦まで継続して指揮官をさせられていたのだろう。私たちは他の部隊からフェアリー部隊と呼ばれていた(注:fairy=同性愛の男性の意味)。彼らは、私たちにはホモセクシャルな傾向があると思っていたのだろう。

大学は混んでいたので、私たちはカトリック司祭の宿舎に部屋を与えられた。終戦時に医学部2校が私に海軍枠での入学をオファーしてくれたが、その時も私はWertman先生(注:DBの子供時代のホーム・ドクター)の生活を覚えていたので、歯科医師候補に留まった。

次に、オレゴン州立大学で化学と心理学を専攻した。本来は歯科医師候補だったので、最終的にはオレゴン州立大学歯学部を卒業した。 大学時代は、夏休みも学期中も夜間に様々なアルバイトをした;大工見習い、レンガ積み、とび職(高所ペンキ塗り)、清掃員、州警察などなど。いずれも腕や背中、脚を使う肉体労働だったが、歯科患者の治療は抜歯や歯並びを直すワイヤーの作業、口の中に何かを入れる処置以外は、みんな指先で行える仕事だ。私は患者に大変人気があったが、農夫のような気さくなもの言いをするからだった。
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私は歯学部在籍中に、美しい、背の高い女性と結婚し、息子が生まれた。私が日本に配属されていた長い別居期間を経て、私たちは離婚した。

息子は継父と共に育ったが、彼にとってはその方が幸運だったと思いたい。何年も後になって再会した時、私は息子の優しくて、思慮深いものごしに胸を打たれた。なぜなら、それは彼の母親の特質にほかならなかったからだ。それだけではなく、彼の判断力と能力は、私が共に仕事をしている多くの人々にも感銘を与えた。